2021-02-26 第204回国会 衆議院 予算委員会第五分科会 第2号
そのため、詰め込み教育の可能性も高く、それも度を超え始めている状況にもなってきている職能団体があります。 例えば、歯科技工士の二年教育、放射線技師の三年教育は、それぞれ、技工士は三年にしてほしい、放射線技師は四年にしてほしいという意見は厚労省の方も御存じだと思うんですが、そういうことがありますので、患者さんのことを考えるとそれも必要ではないかと思っております。
そのため、詰め込み教育の可能性も高く、それも度を超え始めている状況にもなってきている職能団体があります。 例えば、歯科技工士の二年教育、放射線技師の三年教育は、それぞれ、技工士は三年にしてほしい、放射線技師は四年にしてほしいという意見は厚労省の方も御存じだと思うんですが、そういうことがありますので、患者さんのことを考えるとそれも必要ではないかと思っております。
是非継続的な、そして、これも子供たちに詰め込み教育をするなというのと同じで、先生にも詰め込んでもしようがないわけですから、今、いろいろな研修等においても、先生が自ら主体的に考えられるような研修を是非工夫していただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
○串田委員 詰め込み教育ではなくて、自分で考えるというのは大事かなとは思うんですけれども、ゆとり教育を行うことによって学力が低下したというのは、結構世間的に言われているのかなと。
○串田委員 かいつまんで言いますと、いわゆる詰め込み教育というのは、知識をどんどんと詰め込んでいって、暗記重視という形であった、そうすると自分で考える力というのがなかなか育たない、そういうことなのかなとちょっと感じたわけでございます。
○串田委員 具体的に、その前が詰め込み教育というような言い方も、これもまた文科省がつけたのではないのかなとは思うんですが、実際問題、授業の時間だとか曜日だとか、詰め込み教育からゆとり教育に変わったときの具体的な例というのは、どんなふうな変化があらわれていたんでしょうか。
戦後の詰め込み教育の批判を背景に、一九七〇年代に日本教職員組合がゆとりある学校を提起して、一九八〇年代に中曽根内閣における民間有識者で構成される臨時教育審議会で、個性の重視、生涯学習体系への移行、国際化、情報化への変化などの対応というようなことでゆとり教育の基本となる答申がまとめられ、一九九六年には橋本内閣の中央教育審議会の答申で、校内暴力や非行、社会問題を背景に、これからの社会に求められる教育の在
ゆとり教育は、知識を機械的に一方的に覚えさせる詰め込み教育の改善策として打ち出されたものでありましたが、知識を教えることは教育にとって必要不可欠であって、知識なくして、生きる力も英知も知恵も育むことはできません。 そんな中で、今、重視されてきたのがアクティブラーニング、日本語でいえば、主体的、対話的で深い学び。
また、英語の早期導入、教育課程の前倒しなど新たな詰め込み教育が危惧されるとともに、転出入する児童生徒への教育保障に問題が生じると指摘しなければなりません。 審議を通じて、小中一貫校が学力向上、いじめや不登校の減少に効果的とする文科省の説明は、科学的に検証されたものとは言えないことも明らかになりました。
特に、九年間一貫で教育しますので、先ほど詰め込み教育になっていくという言葉もありましたけれども、ある意味でエリート教育化、特に高校受験に強い一貫教育校じゃないかなという期待も高まって、どんどんそちらに人が集まってきて、マンモス校化して問題が出てくる。
○田村智子君 これはもう配慮というのを超えたほどの詰め込み教育になってしまうんじゃないかというふうに私は危惧するわけですよ。 私も行きましたけれども、確かに子供たち頑張って生き生き楽しそうに学校の中にいますけれども、それは一日や短時間見ただけでは分からないような問題というのをしっかりと私は検証すべきではないかというふうに思います。
ですから、受験生へのいろいろな負担とか詰め込み教育という暗記型の教育をなくすという意味では、短答式試験の科目を減らすというのも一つの選択肢であると思いますけれども、同時に、やはり論文式試験のことも念頭に置いて、短答式試験の科目のなくなるところの教育内容の充実をもう少し図っていく必要があるのかなと。
それ以来、西側の自由主義国は旧ソ連に負けまいということで理数科教育を強化して、どんどん競争というか詰め込み教育をして、競争をさせるように私はなったんではないかなと。
ただ、問題なのは、彼らの問題意識として、詰め込み教育だけでは創造性のある企業、なかなか発展ができないという問題意識も彼らはあるわけですね。
日本の教育は、いわゆる詰め込み教育というか、画一的な能力を持った子供たちを育てるには適したところもあり、また、優秀な労働者を育てるという意味では、それはすぐれた実績も上げてきたと思いますが、特に基礎科学の分野で、天才的な業績を生み出す可能性のある子供たちを生み出すという意味では、少し問題があるのではないかとも思っています。
だから、現職自衛官の教育をする際、詰め込み教育、いわゆるそういったものではなくて、例えば外部の様々な歴史観を持った有識者とディベートをしてみるとか、あるいは柔軟な発想をさせながら、この国の防衛をどうしたら、外交面も含めて対処したらいいのかということをしっかりと把握させることが私は極めて重要だと思うんですね。
○小宮山(洋)委員 多分これは、先生方に向けて、一般の方にも配られているんでしょうか、このQアンドAを読むとかえってわからなくなってしまうようなところがありまして、大臣のお話はよく理解できる部分はあるんですけれども、ゆとりから詰め込みじゃないかというQに対しては、「「詰め込み教育」への転換ではありません。」
それまでの学習指導要領、これは八九年、平成の元年改訂ですけれども、詰め込み教育という強い批判を受けてのものでした。 そこで、では、現行指導要領というのはどのような趣旨で変えられたのでしょうか。まずお伺いをいたします。
といいますのは、そもそも、今まで教育の改革の方向といいますと、十年前は、今まで学力をどんどん伸ばすことをやってきたと、しかし学力を伸ばすことを重視してきた余り、どうも詰め込みになってきたじゃないか、詰め込み教育になって、そしてそのために人間性が十分教えることができなかったんじゃないかなと、そんなこともあって、いわゆるゆとりということにしようじゃないかと。
私は、ゆとり教育という理念自体が誤りであるとは決して思わなく、詰め込み教育にはもちろん反対なのですが、大事な時期の人間のバックボーンをつくる基礎教育もないがしろにして、ただ自由時間を増やせという意味であれば、断じて誤りであると考えております。 普通の人は教えられ、しつけられて初めて一人前になるのであって、そうした基本が身に付いてこそ応用があり個性があります。
そのそごが高度成長期の詰め込み教育の中で教育問題化してくるわけで、中教審のいわゆる四六答申でもこの問題は認識されております。 当然、教員にも教科専門のレベルの高さ以外のものが求められてきますが、いったん教員養成の基本的な枠組みができてしまうと、せいぜいその中で教職に関する科目の単位を増やすぐらいの対応しかできないわけです。
反復学習が詰め込み教育、個性を殺すあしき鍛錬主義だとみなされて、みずから学び、みずから考えるを目指す新しい学力観に対する古い学力の典型と受けとめられたのではないか、こんなふうに思っております。 新しい学力観の登場で小学校では読み書き計算の反復学習が廃れていき、基礎的な計算能力や言語能力が著しく落ちていったのではないか、そんなふうに思います。
例えば、今、森市長の方から詰め込み教育云々というような受験教育の問題がございましたけれども、詰め込み教育などの弊害について演説が最初に行われたのは、二十世紀の初めのころ、文部大臣が行っております。それならそれで解決するかというと、なかなかそうはまいらない。何十年かたつと、またそういう問題が起こってくるというような性格もあるわけでございます。
そういう意味で、当然、世の中全体、世界全体が競争社会にさらされているわけですから、競争というものも重要だと思いますけれども、それを取り入れる上で、今までやってきたいわゆる詰め込み教育というものにただ戻るだけであれば、それは極めて短絡的な発想でもあると思いますし、そういうことのないように、また深い御議論をお願いしたいと思います。
この点、やはり落ちついて勉強することが詰め込み教育のいい部分ですよね。詰め込まなきゃならないから、とにかく落ちついてじっくり勉強する。
日本の場合でございますけれども、日本は、昭和の時代というとちょっと古い話になりますけれども、この時代はまあ比較的たくさんの知識量を学ばせるという時代が続いたわけで、いわゆる一部に詰め込み教育といったような批判があったわけでございます。そういう中で、平成に入りましてから、子供たちに身に付けさせる共通の知識量というのは、これは精選をしようと。
僕は、そのゆとり教育と詰め込み教育のはざまのときにちょうどインドへ行ってきたんですけど、インドはもう飛躍的に伸びていますよね。階級制度というか、制度があります。カースト制度なんですけど、だんだん崩壊しつつあるんですよね、大臣ね。
当時問題にされた詰め込み教育の時代、そういうことに戻すのではなくて、そこを改善しながら、その欠点を補いながら、教育というものは人間力をつくっていくという大きな課題に向かっていくことが重要であります。 人格の完成というのが今回の教育基本法の最大の中心概念でありますから、それには、やはり目指している方向はゆとり教育の見直しであるべきだと私は思います。